2022年3月4日金曜日
自閉症とコミュニケーション
以前、自閉症の少年が本を出版したということで、話題になったことがある。
彼は話すことは脈絡がないのだが、紙の上に印刷された架空のキーボードのキーを、声を出しながら叩くことにより、文章が書けるのだった。
すなわち、彼は想念を世界に刻印することで、考えを整理することができる。
このことは、健常者でも、意識のなかで一つ一つ道しるべを遺していかなければ、彼と同じように、道筋をつけて会話することができないのではないか、という可能性を提起している。
逆に、聴覚障害ではなくとも、なんらかの機能不全により、書くことはできるが、話すことはできない、という場合もあるだろう。
しかし、この場合は、単に話せないだけで、思考は十全に機能し、脈絡を持って意思疎通ができる。
つまり、書くということ、言い換えれば、世界に自分の想念を刻印するということは、自分の考えを整理し、脈絡をつけることであると同時に、自分の考えそのものを世界に記録することでもあるだろう。
書かれる媒体としての石や木片、そして紙は、モーセの戒律のように、人間の言葉である以前に、神の言葉でもあった。
しかし、それは聞こえるものにしか聞こえない、頼りない「言葉」でもある。
従って、それは普通の人間にとっては触れられない聖域であると同時に、「声」を遺す神の微かな痕跡でもある。
従って、聖なる文字と、話し言葉が一致するまでには、長い時間があったと思われる。
しかし、聖なるものの世俗化に伴って、人々が文字と言葉を一致させ始めると、まるで生まれた時からその文化圏の言葉を知っていたかのように、実際にはその環境で育つなかで身に着けるものでもあるにも関わらず、思い込むのではないだろうか?
裏を返せば、聖なる唯一の「書かれた言葉」ではなく、いくつもの話し言葉と、それに対応する文字がある、ということは、世界の多元性を象徴すると同時に、宗教の相対化を要求する。
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