悼む

漫画や小説の主人公の架空の人格に、意識の存在を感じる能力を、人間が持っているならば、死者に対しても、同じように架空の意識の存在を感じることは、おそらく可能だろう。 そして、そのことを知っているから、人は、自分の死後も、残された人たちが、もはや存在しないはずの自分の意識の存在を感じ、悼んでくれることを期待して、死ぬことができるのではないだろうか。 ここで強調されるのが、始原の人間だろう。なぜならば、始原の人間が悼まれることで、次の世代、その次の世代、と、悼むという行為が行われるからだ。 やや原理的なきらいがあるが、そのように、共通の祖先、共通の神をあがめることができる社会は、おそらく村落共同体レベルだろう。 荻野昌弘が述べるように、その村落共同体を壊していくのが貨幣ならば、資本主義が発達するに伴って、死者が悼まれるという機会が少なくなってくる、ということも肯ける。 しかし、資本主義の理屈が浸透するにつれ、人々は、逆に(疑似)宗教や、あるいは民族の起源に固執したりするようになる。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

コメント

このブログの人気の投稿

「金融と社会」質疑応答を基にした、Googleの生成AIによる詳細なレポート