2022年3月6日日曜日

道徳感情論

アダム・スミスは、怒りに満ちた音楽は、不愉快だし、共感を得られないから、作るべきではない、と書いてるんだけど、当然、現代社会では、怒りに満ちた音楽なんてのは、いくらでもあるわけで、当時と今で何が違うか、というと、「個の内向き化」ということなんだろう。 イヤホンとCDプレイヤーのおかげで、とても家族にも聴かせられないような曲でも、安心して聴くことができる。 ましてや、公共の場では演奏することが、恥ずかしくて、とても共感を期待出来なかったような楽曲が、公然と演奏される。 このように、アダム・スミスの時代から比べれば、現代は、人々の内面が、あけすけに表現されるようになったと言えるだろう。 また、SNSの普及によって、人間が社交するうえで、最も隠しておかなければいけないような感情まで、大っぴらに開陳される時代になったと言えるだろう。 問題は、それを新しい公共と捉えるか、それとも、個人の、内面への逃避と捉えるか。 日本にしか住んだことがないからわからないが、例えば、有名モデルが、マンガが好きだとか、コスプレマニアだったりすることで、むしろそのギャップのゆえに、好感度が上昇したりする。 こういう、内面の意外さが必ずしもウケるとは限らないが、現代の日本人は、どうも、ある人の裏と表の区別を前提としながらも、両方知らないと、真実らしさを感じられなくなっているのではないか。 問題は、政治の世界にも、政策よりも、政治家の人格が重視されて来ていることだろう。 政治家にも人格が求められるのは確かだが、プロパガンダのように、世の中にウケる政策を掲げる政治家が現れた時、個人崇拝のような政治が往々にしてまかり通ることだ。 その時、個人の感情は、メディア操作によって、いくらでもコントロール出来てしまう。 その一番の例が、ナチズムであり、安倍政権だった。 当然、SNSの発達は、有権者の多様な意見を掬い上げることに貢献している反面、経済政策というものが、本来的に人々の期待に働きかけるものである以上、人々の期待の多様化は、経済政策の有効性を確保することの難しさを増大させる方向に動いているとも言えるだろう。

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