2022年3月6日日曜日

質問

ヘーゲルは市民社会よりも高次の社会として「人倫(倫理的共同体)としての国家」を想定したと説明されていますが、ヘーゲルの時代は絶対精神=神の意志で統治が可能だったわけですが、神は死んだというニーチェの絶叫の後、統治はいかに可能なのでしょうか? ひとつの答えとして、フーコーの「知と権力」の“共犯関係”がありうるでしょうか? また、森鷗外の「かのように」はヘーゲルのような思想的バックボーンを持たないまま明治国家が構築されていくことに対する哲学者としての森鷗外の苦悩があると思われるのですが、この点についてはいかがお考えでしょうか?

0 件のコメント:

コメントを投稿

世界史の中の中国文明@さいたま (再掲)

シルクロードの中国で 南北朝対峙の状況から 隋による統一へと 向かっている過程で、 西方でも 大きな動きが現れる。 東ローマは ササン朝を 介在させずに、 シルクロードの利権(特に中国商品) を 掌握するために、 内陸・海洋の バイパスルートの開拓を企図。  ◎内陸ルート→ 当時...