質問

ヘーゲルは市民社会よりも高次の社会として「人倫(倫理的共同体)としての国家」を想定したと説明されていますが、ヘーゲルの時代は絶対精神=神の意志で統治が可能だったわけですが、神は死んだというニーチェの絶叫の後、統治はいかに可能なのでしょうか? ひとつの答えとして、フーコーの「知と権力」の“共犯関係”がありうるでしょうか? また、森鷗外の「かのように」はヘーゲルのような思想的バックボーンを持たないまま明治国家が構築されていくことに対する哲学者としての森鷗外の苦悩があると思われるのですが、この点についてはいかがお考えでしょうか?

コメント

このブログの人気の投稿

「金融と社会」質疑応答を基にした、Googleの生成AIによる詳細なレポート