漱石と功利主義
さて、そこで漱石と功利主義、ということになるのですが。こうして問われてみて、はたと気づくのですが、近代的個の誕生と相俟って、功利主義が避けては通れない問題だったことを、漱石は痛感していたような気がします。こういう文脈では考えてもみなかったのですが、「ノート」と呼ばれる『文学論』執筆頃の初期の漱石のメモには「道徳―善悪」と「好悪―趣味」の対立がしばしば取り上げられています。そして、通俗的な漱石像とは異なって、ためらいがちにではあるものの、或る意味「個人主義」――自己本位の思想にふさわしく、というか、人の好悪は道徳を超えて働かざるをえない、と考えていたようです。同時にまた、漱石はスペンサー流の進化論についても、それほど無下に否定しているわけでもない。しかし、それは功利主義的な競争や自他の闘争としては捉えられてはいません――漱石流の思考の文脈では、個を追究しながらそれが他の否定へ至らないのは、個には差異があるから、ということになるかと思います。自己本位――自己における個(アイデンティティ)の成立は、他者における個(アイデンティティ)の成立と同時的であるはずだ、というか、この様態こそが「個の成立」なのだ、と漱石は考えたようです。興味深いのは、よく問題になる近代における労働の分化――統一的像を持たない分業的様態についても、漱石はしばしば言及しているのですが、仕事の「分化」に英語の「differentiation」を対応させています。いうまでもなく、「differentiation」は個の「差異化」にも相当します。種々、込み入った議論は行っているのですが、普通は、それこそ功利主義や人間らしい「生」の抑圧とリンキングする分業の問題を、漱石は他者に対する無関心に繋がることは憂慮しつつ、近代の内包する必然と見なした上で、個の差異化というテーマへと連続させていったようです。漱石の近代批判が、あくまで「近代に在りながら近代を批判する」体の、自家撞着を覚悟の上のものであったことが、こんなところからも忍ばれるようです。
もちろん、最大の泣き所は社会制度、というか近代社会の現実――歴然とした貧富の差やその超え方というものへきちんとコミットする体の議論にはなっていないこと、です。観念的な<国家 対 個人>あたりまでは、この後の漱石は敷衍してゆきますが、現実社会の現実問題として設定することはしていません。一言、漱石を弁護するなら、「差異としての個」とはまさに「個性」のことですが、これは近代の「平等」概念がともすれば単純化して均質的な「平均」を「個の平等・自由」と思い違いしてしまう一種の詐術――社会システムや社会正義の側からアプローチした場合にともすれば陥りがちな陥穽を賢明に逃れ出ていることです。
漱石はこの一種の取捨を承知の上で行っていたようで、蔵書には、当時イギリスでも関心の高かったマルクス主義関連のものが相当数、含まれているのに、ページを開いてみてはいるけれど、深く読み込むことはしていないようです。熱心に渉猟したのは初期には心理学系統、この後も西欧思想には関心を寄せますが、英訳版、さらには孫引きで読んでいる思想家はカント、ニーチェ、といったあたりです。
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