2022年3月4日金曜日
森本先生より貴重なコメント頂戴いたしました。
~~~まずは簡単に感想まで~~~
詳細なコメントは後日に譲るとして、読後の感想めいたものを記すと、大きく2点――技術的側面と論旨に関するものと各1点ずつ、さらに疑問とするところ1点、です。
① 先行論からの「引用」について。
「引用」の分量そのものがやや長すぎる、ということもありますが、それ以上に気になるのは、各「引用文」について――その直前なり・直後なり、引用者・小林君による、小林論の文脈に即した敷衍、があって然るべきところ、それが殆どない。
読者に、「引用文を読んで、引用者がそれをどのように自分の論の援用・論拠としてか」を「考えさせる」結果になる(読者がみずから空白を埋めて「考える」ことを要求することになってしまいます)。
幸い、ほぼすべての引用文について、小林君が割愛してしまった「敷衍」は、読者自身によって可能ではありますが、やはり論文執筆上のエチケットに反すると同時に、これでは読者が誤読してしまっても文句は言えない、ので、論者・小林君自身にとってきわめて不利です。
論者が「引用」の前後にどんな感じで「引用文」を敷衍するのがふつうか――作業に入りかけていたところでもあり、冒頭の2頁目あたりについて、拙文で例示を示しておきますね(このファイルの末尾参照■)。
なお、「付記」で言及があったので、あえてここに詳述することはしませんが、上記度同様の趣旨に於いて、「章―節」はやはり設けるべき。現在の小林論において、これは十分に可能である、と同時に、小林君がこの作業を施していれば、おのずから小林君の中で再整理がなされ、さらに論はシェイプアップされていたはず。惜しまれるところです。
② 論の機軸(大枠)は「資本主義社会における疎外」ですね?この問題意識に添いながら、◆まずは「貨幣文化」が象徴する「合理化・計量化」がもたらす「疎外」が論じられ、
◆その具体的様相として、「公共性」を初めとする「倫理」の喪失が指摘され[「国家」「社会」の側から見た弊害]、また「共同性」の下に同一の基準・規範からの逸脱が排除される中、たとえば「キャラ化」が先鋭に示すような「疎外」が生じる[「個人」の側から見た弊害]。
◆論の後半で登場するアドルノは、このような現代社会に対する処方箋の1つを提示している。すでに論じられた「合理化・計量化」は、まさに<近代理性>がもたらした<理性の暴力>そのものであり、疎外は「自然」(の欲求)の「抑圧」といった形でもたらされる。しかし、同時に<個の覚醒>をもたらした近代理性を容易に手放して<共同性のまどろみ>へ回帰するようなことがあってはならない。理性がもたらす「批判」力、それによって展開される「啓蒙」――ここにアドルノの本領発揮を見ることができる。
但し、にも拘わらず、すでに危機的な状況にある現代社会では、貨幣経済が暴力的に消去した「贈与」の文化が内包していた<互いに対する’負い目’(「負債」の観念)>が、実は、戦後、たとえば天皇自身は超越性を剥奪されながら、それに代わって「無言の戦死者たちの報われぬ死―痛ましい死」が帯びる「聖性」――天皇さえもがその前に額ずかなければならない「ゆるやかな超越性」といった形で、しらずしらずの内に「国土」の中に取り戻され、一種、不気味に変容した回帰を遂げていることも指摘できる[内田隆三氏の論]。
上記は、①で指摘したように、「引用文 対 小林君論述」の比重が通常の論文からは逆転
してしまっていて、かつ、小林君による引用文の敷衍がほとんどないので、読者である私が
かなり自分勝手に取捨選択しながら行間を読んで解釈したもの、なのですが、このような文
脈で合っているのなら、私にはたいへん興味深いのみならず、大いに示唆と啓発を頂戴しま
した(※)。
と同時に、「①」の注意を踏まえてくれれば、今以上にシェイプアップはもちろん、形式
的には起承転結のメリハリのある、内容的には理路整然とした説得力と含蓄のある論文が完成するものと思われます。
なお、このように読んでよいのなら、論文冒頭1頁目3分の2あたりまでの「グローバル
資本主義論」は、なくもがな、とも思えました。それ自体としてはきわめて明晰、文章もこ
なれていて秀逸なのですが、同頁の下3分の1から始めた方がすっきり後節へ続くし、また
論文末尾のグローバルは私の思い付きめいたコメントになっており、これ自体「削除」もの
なので。<資本主義・貨幣経済の疎外>で終始する方が趣旨が明晰かなと思いました。
※たとえば、引用してくれた拙文についても。(引用量も相当あって赤面の限り、もっと省くべきでもあるのですが)。かつて自分自身が記した文章ながら、改めて小林論の文脈上で読み直してみるならば、思考の及ばなかった点=新たな発見が見えてきます。引用の拙文では、つい「百合」の場面に焦点化して、「合一」を欲望しながら踏みとどまる代助像を強調してしまいましたが、むしろテクスト全体を通底する「理性と自己意識の先鋭化=自然・身体・欲望の抑圧」という苦しい「根源的自己矛盾」にこそ着目すべきだったことに想到します。代助が平岡夫婦を見送ってからの3年間(「自家特有の世界」)とは、まさに明敏な自意識という名の主体性を誇ったつもりが、実はその裏で自然(身体)の抑圧という大きな代償・代価を支払い続けた3年間だった、ということですね。『こころ』を初めとする漱石関係についての感想は、後日のコメントに、若干、また記させてもらいます。
③ 「差異」論をめぐる疑問
・仲正氏の論(小林君の11頁目)ですが、「間主観性(共同主観性)」の下では「同一化」の論理が働く、また「差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない/同一性に吸収されない差異=他者は排除される」とあるのですが、「同一化」に引き寄せすぎた定義になっているように思われます。
デリダの言う「差異」は、同一性からの「ズレ/ズラし」のはず。「同一性に吸収されないもの」を「排除」しようとする従来の哲学観に異を唱えて「戯れ」を推奨するわけなので。「間主観性」はフッサール以降、定義に揺らぎがありますが、これもまずは独我論への警戒が基盤にあって、別名「相互主観性」とも称されるように、世界の成り立ちを主観と主観の絡み合いとして見ようとする発想、つまりは自他の「関係性」が主眼と思われます。仲正が批判する、個を縛る「社会ができたとこい」からの「約束事」については全く同感で納得するところですが、むしろ「差異」の発想とは対立的と思われます。
・上記とも連動する話として。
鷲田氏の「顔」論――「根源的交叉」ですが、これも生き生きした「自他」の「関係性」を現象学的に説き明かしたもので、「共同性」ましてや「規律」とは、むしろ対立的では。
小林君の提起する「キャラ化」における「自他」の関係は、一口でいえば「他者からの承認」を求める承認欲求ですよね。他者から求められる/好ましがられる自分像・役割を「仮面」として被る。これに対して「顔」論にいう自他の関係はまさに「相互性」(応答関係)。
「他者」が「私」を映し出す「鏡」である、というのは――「あなた」の(眼差しの)中に「私」が居て、そう感じた「私」の表情がまた「あなた」へ照り返す、「あなた」へ片影する、そういう相互作用のこと、だと思います。
「キャラ化」はこのような自他の関係性(相互性)を感得することが出来なくなってしまった者の絶望の形である、とも、また逆に、「間主観性」や「根源的交叉」は、そのような閉じられた自己(様々な他者に応じた、その時々の仮面の付けかえ=浮遊する自己)からの脱出の回路を示すもの、とも言えるのではないでしょうか。
■ -小林君2頁目冒頭より
金融というのはいつもそうだったけれど、現代の市場型間接金融においては、情報に基づいた信用こそが、ある意味ではその人そのものである、というのは、まさにその通りである、と思われる。情報に基づいて、個人をランク付けし、世界中の貸し手と借り手を結びつけた、金融の実現されたユートピアだったはずが、崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
この「情報に基づいた信用」というものが、いかに「信用」という語が孕む本来的なイメージとは異質な非人間的なものであるかについては、以下の井上俊の論考が明晰に説き明かしている。
「引用」は1行~2行空け、1マスから2マス下げる
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を
決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし(中略します)
だという一首の逆転がおこる。
1行か2行空ける
以上の引用からも明らかなように、高度な資本主義社会における「信用」とは、もはやその人固有の人格とは全く無縁な、一般化された社会的基準によって量的に算出された非人格なしろものに過ぎない。ここには<個人>を生みだしたはずの<近代>が他ならぬ<個人>を否定する、という一種の逆説さえ見て取ることができるだろう。
以下、その皮肉な逆説が生じる経緯を小西中和の説に添って解説し、このような状況をいちはやく的確に批判したデューイの見解を紹介しておきたい。(その上で3頁目へ繋ぐ)
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