漱石と行為
前便では、つい「行為」を通常に言う具体的な「action」のニュアンスで受け止めていたのですが、「知ることは行うことである」といった文脈での――個々の具体的経験に先立つアプリオリな知を排すべく――「行う」、だったのですね。当然のことながら、その持続的積み重ねは「人格(パーソン)」を形成するわけで。とつおいつ、ここまで辿って、これこそが「個人」――固有で独立的な個そのもの(の生成)なのだ、ということに想到しました。
ある個人の個々の経験の持続、それこそが「個性」の基盤、ですね。
実は漱石も、人それぞれ、おのずからな意識の向け方、つまり関心の持ち方が次第に「我」を形成してゆく、といったようなことをしばしば述べているのですが、これを経験主義の文脈ではなく、その影響下にありながら心理学の側面に焦点化(ある意味、矮小化)させたウィリアム・ジェイムズの「意識の流れ」論の文脈で捉えてしまっていたので、いわゆるアイデンティティ(自己同一性)の成立、といったようなニュアンスで考えることしかしていませんでした。ジェイムズはベルグソンとも繋がり、そうなってくると日本では西田哲学――主客や自他関係の中の「我」といった基盤設定がおのずから整ってしまい、これはこれで漱石の作品を考える際に極めて有効なものですから。
この捉え方一辺倒では、「社会の中の個人」といった側面は見えなくなってしまうことを痛感させられました。
実は有名な『文学論』の下地として、漱石本人が「心理学」と「社会学」を挙げているのですが、前者についてはジェイムズを中心にかなり明確な見取り図を描けるのに対して、「社会学」なるものについては諸分野、諸家の影響が雑然、あるいは渾然一体となっており、広く「社会科学」全般からの影響、という形で処理されがちです。明らかにヒュームやカントの影響は伺えるのですが、対応する蔵書が見出せないこともあって、半ば放置状態、ましてやここに漱石の「個人」の源流があることは、一部の研究者が時折、指摘するに留まっています。今回、教えてもらった源泉としての「功利主義」「経験主義」の存在は、そのかけがえのない補助線の役割を果たしそうです。
ただ、どうやらカントからヒュームへ遡る、という手順で哲学史を辿ったらしい漱石は、カントに倣って「経験」の内実を「感覚・知覚」に集約させる、という一ノ瀬氏が警告する過ちに陥っている節は大いにあるのですが。
最近、資料が豊富に整った漱石の「ノート」――まさに雑然としたメモの集積に、焦点を絞りかねていたのですが――を当たる際の枠格子を頂戴した思いです。
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