漱石と差異
そもそも前便では、原点にある功利主義に関する理解が、小林君が親切に「快の追求・苦の忌避」とリードしてくれていたにも拘わらず、実にいい加減でした。前便で記した個人の存在基盤に「好悪―趣味」を置こうとする漱石の発想は、まずは功利主義抜きには生れようもないし、「分業」の陥る弊を「同感・共感」で補おうとする思考パターンも、まさにイギリス流個人主義の原理と流れを、案外、的確になぞっていることに改めて想到します。
そして、「同一性」を原理とする「民主主義」に対して、「差異」へと議論を展開する漱石は、今回の文脈でいえば、明らかにリベラリズムの流れに在る、ということになるのでしょう。
近現代の思想家たちは、「最大多数の幸福」から洩れる少数者へ様々な配慮をめぐらすことで共通しているようですが、ロールズは、現代リベラリズムの良心的旗手、ということになるでしょうか。
「多様性」の主張は確かに多元的文化主義や相対主義に陥りがちで、シュミットはここを衝いているようですが、漱石の場合は、ここを超える手法として例の「純粋経験」論(ジェームズ&西田幾多郎)を手にしたようです。「我」と「他」は、バラバラな原子としてあるのではない、というより、「私」や「あなた」などという実体が客観的に存在しているはずがない。あるのはただ「意識の流れ」だけで、仮にそれに「私」と名付けて方向性を与えることで、「私」ではない「あなた」が見えてくる――「自」と「他」は同じ生命の根源とでもいうべき場所から生まれてくる。ほとんど宗教や禅を現象学的に把握したとでもいうべき存在論を以て、相対主義を免れようとした、といえば良いだろうか、など、考えます。
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