2022年3月4日金曜日
論考6
著作からして、原武史先生が「昭和史発掘」を読んでいるのは既知として、焦点は、明治以降の日本の基軸の役割を、天皇はどのようにして果たしたか、という点にある。原先生が述べているように、天皇は、全国への行幸啓に、鉄道を使うことで、均一化された時間を構築し、予定通りに行われる軍事演習をご覧になることで、均一化された空間を支配した。
明治期の日本の近代化を象徴する一幕として、「三四郎」において、運動会でストップウォッチを使ってタイムを測る野々宮さんを嫌悪する主人公の姿が描かれているが、これも、漱石流の「近代」への嫌悪感の現れだろう。
運動会にことよせて言えば、全国の小学校において特に教えられるのは。「正しい」体の使い方である。我々が当たり前だと思っている走り方、泳ぎ方などは、実は明治期以降に刷り込まれたものである。
そのような体の使い方が必要とされる理由は、つまるところ戦争である、と三浦雅士さんは述べている。均一化された時間、空間に加え、画一化された肉体が要求されるとともに、戦争遂行のためにフル稼働する工場も、フーコー流にいえば、また「管理」された世界である。
このように、特に日本における「近代」とは、天皇崇拝という上部構造と、その背後で実体的、即物的に動く下部構造が相互補完的に絡み合っていた、と言えるだろう。
アドルノの近代批判は、啓蒙という形をとった理性の暴力的側面であるが、明治期日本において理性(=近代化)の急激な流入への肉体的反発として描かれるのが、漱石の「それから」における、代助が百合の香りに己を全的に放擲するシーンである。
そこでは、理性に対し掣肘を加え、理性以前の主格合一のまどろみへ回帰しようと試みるが、そこから逃避して、正気に返る、という描写である。
日本の公共交通機関、とくに鉄道が時刻通りに運行されることや、行事などがスムーズに執り行われることへの強迫観念は、近代化、その裏に潜む天皇への畏敬の残滓と言えるかもしれない。
「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
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