2022年3月4日金曜日
論考1
現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。
セキュリタイゼーション(証券化)により、土地、不動産も含めて、証券化できるものは何でも債券として世界中を飛び回るわけだけど、それは、バランスシートにアーカイブとして刻印される。あたかも、大地機械から脱コード化された欲望機械がコンステレーション(星座)を象徴するかのように。星々がカナリアの歌声をやめてから久しいが、星座はいつか崩壊するのだろうか?その時、アーカイブを刻印されたバランスシートが、反逆の雄叫びをあげる?
貨幣というのは、確かにバランスシートに刻印されるものであるけれども、本質的に信用によって無性生殖的に増幅されるもので、その意味で、起源を持たないものなのかもしれない。いや、そうじゃない。ナニワ金融道で灰原が枷木に、お前が生命保険かけて明石海峡大橋から飛び降りれば、カネができる、と言ったように、貨幣にも暴力的な起源はある。むしろ、貨幣の増幅の仕方が信用によって支えられているのであって、貨幣の起源自体は明白に暴力的なもので、おおっぴらなものだ。
六部殺しの伝承にもあるように、お金というのは何かしらの罪意識と繋がりがあるのかもしれない。シェークスピアの「ヴェニスの商人」に出てくるユダヤ人金貸し家シャイロックも、裁判官から不当な扱いを受けているし、そもそもカネに利子をつけて貸すこと自体が禁じられていたキリスト教社会において、金融業がユダヤ人に半ば押し付けられていた、というのも、お金が何かしら罪深いものだ、という意識があるのかもしれない。
金融というのはいつもそうだったけれど、現代の市場型間接金融においては、情報に基づいた信用こそが、ある意味ではその人そのものである、というのは、まさにその通りである、と思われる。情報に基づいて、個人をランク付けし、世界中の貸し手と借り手を結びつけた、金融の実現されたユートピアだったはずが、崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。
p.90~93
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