論考4
今の日本のような、労働し、その対価として金銭を得ることに至上の価値を置く社会を、「労働する動物の勝利」とハンナ・アーレントは表現している。 公共の問題を議論する能力を失った人間は、アーレントに言わせればまさに「人間の条件」を満たしていない。人間は本来互いへの「贈与」による“負い目”によって経済活動を営んできたのに、貨幣至上主義がそのお互いの『負い目』を絶ち切ってしまったのではないか。ネパールの山岳地帯の人々が、地震によって伝統的な石造り建築を失っても、また再建する。建築物は失っても、伝統的儀式によってまた復活するその姿は、経済的に豊かではなくとも、逞しく、そして、生き生きしているように見える。そこには貨幣空間のなかで現代人が奪われた何かがあるように見える。ここで、貨幣の暴力について考えてみたい。ここで注目したいのは、イサク奉献である。アブラハムと神の間にはエコノミーが存在しない。 人間世界における法的な比較衡量というのは、エコノミーの原理でもある。(目隠しをされた女神が天秤を掲げている像を想起されたし。) つまり、貨幣の暴力というのは、法的にも社会を物象化することを含意している。
イサク奉献における神とは、0
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