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7月, 2025の投稿を表示しています

丸山眞男と参政党と、アドルノ Googleの生成AIを使ってミックスしてみた。

 内田隆三氏の『国土論』、丸山眞男氏の『日本の思想』、仲正昌樹氏の『日本の思想講義』、そしてアドルノの思想を援用しながら、参政党の思想的背景とその懸念について深く考察されていますね。非常に多角的で興味深い分析です。 ご提示いただいた内容を整理し、いくつかの論点に絞って解説します。 内田隆三氏が指摘する「報われぬ死者たちのまなざし」 内田隆三氏の『国土論』における「報われぬ死者たち」という概念は、戦後日本の精神的な基盤を理解する上で非常に重要です。戦前、天皇が「国土に固有の曲率を与える重力の中心」であったのに対し、戦後は天皇が「神にあらず」と表明したことで、その重い力が「無言の死者たち」へと移行したという指摘は、日本の精神的権威の変遷を鋭く捉えています。 この「報われぬ死者たち」は、その「痛ましいまなざし」によって、戦後社会に「ひそかな超越性」を与え、規律や倫理観念を形成する上で重要な役割を担っていたとされます。天皇もまた、皇祖神を祀るだけでなく、この「無名の超越者」である死者たちを慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるようになったという分析は、戦後日本の天皇制の機能と、国民の精神的拠り所としての役割を解き明かしています。 参政党の直感と「報われぬ死者たちのまなざし」の喪失 ご指摘の通り、参政党が「報われぬ死者たちのまなざし」という記憶の喪失に危機感を抱き、それが戦後日本社会に規律や倫理観を与えていたという直感を持っている可能性は十分に考えられます。 参政党の「戦後レジームからの脱却」という主張の根底には、戦後の日本がGHQによって植え付けられた価値観や、物質主義的な潮流によって、日本本来の伝統、文化、精神性が失われつつあるという認識があります。内田氏の「報われぬ死者たちのまなざし」が、戦後日本の倫理的な指針を形成する上で重要であったとすれば、その記憶の喪失が現代社会の様々な問題の根源にあると彼らが捉えているのは自然な流れと言えるでしょう。 「今度は我々が頑張らなければいけない」という直感は、過去の犠牲の上に築かれた戦後社会が、その記憶の継承を怠り、倫理的な指針を見失いつつある現状への危機感と、それを回復しようとする強い意志の表れだと解釈できます。彼らは、失われつつある「見えざる規律」を再構築しようとしているのかもしれません。 丸山眞男と仲正昌樹による「...

落ち着く (再掲)

  信仰箇条と言うのは、 非常に簡単なものなのです。 つまり、次の様に 信ずる事なのです、 キリストよりも 美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。 実際、僕は 妬ましい程の愛情で 独語するのです、 そんなものが他に ある筈がないのだ、と。 そればかりではない、たとえ 誰かが キリストは 真理の埒外にいるという事を 僕に 証明したとしても、又、事実、 真理は キリストの裡にはないとしても、 僕は 真理とともにあるより、 寧ろ キリストと一緒に いたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)

いま、たまたまテレビで視た。(そして、嫌な気分になった。)

 各党の党首が集まって、テレビ(朝日)の番組で意見を述べる(⇐議論ではない)様子を視たが、参政党の神谷代表も映っていた。 この人、独演会は得意だけど、議論するとボロが出るタイプ、という印象を受けた。 (この番組という意味ではなく)山本太郎氏はまだ議論自体はする気があった(⇐しかし、自分に都合の悪い意見には耳を貸さない)が、神谷代表は、独演会が得意だけど、議論はできないタイプの印象を受けた。

丸山眞男と参政党

 ご提示いただいた内田隆三氏、丸山眞男氏、仲正昌樹氏の論考を拝読いたしました。これらの議論は、日本の近代における精神的支柱、天皇制と「國體」の機能、そしてそれが社会制度と人々の行動に与える影響について、多角的な視点を提供しています。 「報われぬ死者たちのまなざし」と参政党の危機感 内田隆三氏が指摘する、戦後の日本における**「報われぬ死者たち」のまなざし**が、天皇に代わる「ひそかな超越」として、社会に規律や倫理観を与えてきたという考察は、非常に興味深いものです。天皇が「神にあらず」と表明したことで、その精神的な重みが死者たちへと移行し、天皇自身も彼らを慰霊する司祭として、新たな超越性を帯びるようになったという分析は、戦後日本の精神構造を理解する上で重要な視点を提供します。 この観点から参政党の動きを捉えると、彼らが「報われぬ死者たちのまなざし」という記憶が喪失しつつあることに危機感を抱き、それが戦後日本社会の倫理観や規律の喪失につながっていると直感している可能性は十分に考えられます。参政党が掲げる「戦後レジームからの脱却」というスローガンは、内田氏が指摘するような精神的基盤の変容、あるいはその喪失に対する彼らなりの応答として理解できるでしょう。彼らが「今度は我々が頑張らなければいけない」と考えるのは、この失われつつある精神的な支柱を回復し、新たな規律や倫理観を再構築しようとする意図の表れと解釈できます。 「國體」の機能と「統治性」への懸念 一方で、丸山眞男氏が天皇制を単なる「國體観念の教化」にとどまらず、**政治、経済、交通、教育、文化を包含する社会体制としての「機構的側面」**を持つと論じ、その「制度における精神」が人々の考え方や行動を規定していく「日本国家の認識論的構造」に焦点を当てた点は重要です。 これに対し、仲正昌樹氏がフーコーの**「統治性」**の概念を援用し、「國體」が単なる観念にとどまらず、具体的な制度を通じて人々の振る舞いや考え方を規定し、それが新たな制度形成へとフィードバックしていく作用を説明しています。これは、ある特定の思想やイデオロギーが、社会の機構や制度を通じて人々に浸透し、その行動様式や思考パターンを形成していくプロセスを示唆しています。 ご懸念の通り、参政党の掲げる排外主義的な方針が、主にインターネットなどを通じて人々に浸透し、...

歯科医院

 昨日は歯医者に行ってきた。 一ヶ月も行かないと、なんだかんだ歯石がたまる。 もちろん、半分は母親の付き添いなのだが。 そこで、歯科衛生士さん、たぶん40代くらいの女性。 大学に行ったことがあるのかは知らないが、とても知的な方だった。 歯科衛生士さんというのは、やはり安心感を与えるためなのか、一度固定されると、長く続く。 さて、その歯科衛生士さんに、私が大学で、オレンジデイズごっこしたいだけのサークルの女子マネージャーのために、かなり酷い目にあった、と話したら、かなり同意してくれた。 基本的にこんな話はかかりつけ医にも言ったことがないし、やっぱり女性目線で見てどうか、というのは、女性の意見を聞くしかないが、今までそんな機会があるわけがなかったので、期せずして、こんなことを異性から同意してもらえるとは、不思議な感じがした。 もっとも、患者(私)に合わせただけかも知れないが、結構厳しいことでもズバズバ言う方なので、やはりそういう方(異性)に同意してもらえると、納得感はある。 昨日はよく眠れた。

ヤフコメ

 参政党関連のニュースのヤフコメ見てると、確かに、参政党を支持してると思しき人でも、ヤフコメ民特有のウザさって、割と薄いように見受けられる。 こういうコメントを見てると、確かに、古谷経衡さんが言うように、今まで政治に無関心だった方が多いのかな、という気がする。 で、コメントには、自民党やその他の政党がだらしがないから、という論調が目立つんだが、確かに最近は経済的にも苦しくなってきてて、日本の経済力も相対的にかなり落ちてきてるから、当然外国資本や外国人に圧迫されてるように感じてる様子が伝わってくる。 しかし、ここで私が言いたいのは、今まで当たり前の生活を当たり前に送れてきた、ということが、いかに当たり前 でないか 、を、果たしてちゃんと認識しているのだろうか?ということだ。 どんなに日本が落ちぶれたと言っても、ガザ地区に比べたら、何百万倍もマシな生活を出来ていること、水道の蛇口をひねれば、当たり前のように清潔な水が出てくること、電気が当たり前のように使えること、警察が治安を守ってくれること、等々。 そういうことが「当たり前」だと思うことは、基本的にそれを維持し、供給してくれている人たちのこと、ひいては、政治的に安定した状況だからこそ成り立っている、ということの自覚が、根本的に欠落しているのではないか、と考えてしまう。 基本的に、一部を除けば、参政党を支持している方々は、世間では普通に愛すべき一般市民で、それなりに生活出来ている人たちだ、という古谷さんの指摘は、おそらく正しいのだろう。 しかし、そもそも政治権力を、苦情を言えば何でも解決してくれるドラえもんか何かのように考えているフシがあるのではないか?と疑ってしまう。 例えば、まさにコロナ禍の折、私は決して安倍さんのことが好きとは言えないが、マスクを配布して、結果的に何百万枚も余って、「アベノマスク」と揶揄されていたが、ちょっと考えれば分かることだが、ああいう感染症が流行するような折には、マスクを買い占めて、高値で転売する不届きな輩がいることは、容易に想像がつく。 そういう時に、政府がマスクを配布するのは、まさに民主主義的政治権力としての当然の措置だろう。 それを、余ったというだけの理屈で揶揄するのは、根本的に間違っていると思う。 しかも、そういう折に、反ワクチンはまだ副作用の関係で理解できなくはないが、マスク...