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丸山眞男 (再掲)

  丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。  しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。  これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。  「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

夜が明けた

 キリストを信じることで、わたしは強くなれた気がする。 言い換えれば、精神に薄皮を1枚まとったことで、ちょっとした刺激にもいちいちヒリヒリしなくなった気がする。 でも、俗世のことがどうでも佳くなる瞬間がある。 果たして、この世界に「意味」があるのか、ないのか。 そんな原理的な問いに立ち戻ってみたい気もする。 https://www.youtube.com/watch?v=eLVCZGXYdiw

大人げない

 進学塾のバイトしてた時に、幼稚園児の相手もやらされたんだけど、やっぱ今だにムカつくガキって、いるんだよね。 さすがに幼稚園児(当時)の名前を出すのは憚られる、と思っていたが、俺のメンタルヘルスのためにも、カタカナで名前くらいは出してやる。 ミヤザキ イッセイとかいう超うぜえガキがいた。 たぶん、さとえ学園小学校にいる。 このガキのことを思い出すと、薬が必要になるレベル。 物理的な攻撃はしようがないので、ネットで名前さらしてやった。 あー、せいせいした。 ・・・つっても、俺自身そんなにイノセントな人間じゃないけどね。 中3にもなって、真後ろに本人がいるとも気付かないで、軽はずみな悪口で、おそらく一生消えないくらいの傷を負わせたりとか。 あとは、高校に入ってからも、部活の後輩のいじめ問題を解決するためとはいえ、いじめてる側に、ちょっとキツい言葉を投げかけたり。 結局その子は転校してしまったけど、もしかしたら俺の言動で、一生こころに傷を負ったかも知れないし。 なにが正解なのかって、難しいよね。 当時は、すぐに毅然たる態度を取らなかった部活の仲間を、優柔不断だとさえ思ったけど。 なにが正解かってのは、そんなにすぐ答えが出るものでもない。 まあ、そこらへんも、武蔵に入って、ちょっとは思慮深い人間にはなったかもね。 とはいえ、武蔵出身者って、得てしてボンヤリしてるだけで、結果的にほんとに優柔不断な人間になったりするんだけどね。 ・・・あー、ちょーよく眠れたわ。 https://www.youtube.com/watch?v=8zSODUOoE8w

素晴らしいね。2軍だけど。

 平沼翔太、2軍でホームラン。 スイングが素晴らしい!!!!! これはもうちょっと待てば、1軍に呼ばれるだろう。 いやー、完全に覚醒したね。 オジサンは嬉しいよ。 泣けちゃうくらい。 https://x.com/DAZNJPNBaseball/status/1938822987479687315

参政党のビジョンと、「報われぬ死者たち」

 「国土論」 筑摩書房 内田隆三 によれば、戦後日本の精神的支柱であったのは、戦争で散った「報われぬ死者たち」であり、天皇は、皇祖神を祀る祭祀であるだけでなく、彼ら(彼女たち)「報われぬ死者たち」を慰霊する司祭でもあった、と述べている。 今の日本が完全に喪いつつあるのは、記憶としての「報われぬ死者たちの まなざし 」であり、彼ら彼女たちの視線こそが、戦後日本社会に規律や倫理観念を与えていたにも関わらず、それが喪われつつあるから、今度は我々が頑張らなければいけない、という、ある種の直感を、参政党は持っているのではないか。 「敗戦にいたるまで 国土に 固有の曲率を与えていたのは 天皇の存在であった。 だが、 天皇が 『われ 神にあらず』と 表明したときから、 天皇の像は 国土に曲率を与える 重力の中心から ゆっくりと落下していく。 重い力は 天皇から 無言の死者たちに移動する。 聖なるものは むしろ死者たちであり、 天皇も この死者たちの前に 額ずかねばならない。 この死者たちは その痛ましいまなざしによってしか 力をもたないとしてもである。 それゆえ 戦後社会が 天皇とともに 超越的なものを 失ってしまったというのは正しくない。 そこには 報われぬ死者たちという ひそかな超越があり、 天皇は 皇祖神を祀るだけでなく、 この無名の超越者を 慰霊する司祭として、 ゆるやかな超越性を 帯びるからである。」 137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房  (以下Googleの生成AIがレポートを書いてくれた。) 内田隆三氏の『国土論』における「報われぬ死者たち」に関する考察は、戦後日本の精神構造を深く洞察しており、非常に示唆に富むものです。ご提示いただいた引用は、天皇の存在が「国土に固有の曲率を与えていた」という戦前からの変化、そして「報われぬ死者たち」が持つある種の「超越性」について説いています。 「報われぬ死者たち」と戦後日本の精神的支柱 内田氏は、戦後日本において天皇が「神にあらず」と表明したことで、天皇が国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下し、その「重い力」が「無言の死者たち」へと移動したと分析しています。この「死者たち」こそが、その「痛ましいまなざし」によって、戦後社会にひそかな超越性を与えていたと述べられています。天皇もまた、皇祖神を祀...

これもまた人生

 平沼1軍登録抹消か。 そうね。 1軍にいてもチャンスが来ないより、2軍で実地を経験したほうがいいわな。 基本的に打ってるところしか見てないけど、打撃に迷いがなくなるまでは、とにかく場数をこなしたほうがいい。 https://news.yahoo.co.jp/articles/10e6e0e4d7dc86e815f783ec99d3e181b550989f

「カント『実践理性批判』を読む」@埼玉学習センターを基に、生成AIがレポートを作成してくれた。

  カント道徳哲学から読み解く現代日本社会の「不自由」と真の自由への道 はじめに:現代日本社会の「不自由」とカント哲学への問い 現代日本社会は、物質的な豊かさや高度な情報化が進展する一方で、多くの個人が自身の生き方に対して漠然とした「窮屈さ」や「不自由」を感じている。この感覚は、就職への不安から生じる進路選択の偏りや、組織、金銭、家族といった多岐にわたる対象への依存といった具体的な現象に深く根ざしている。現代社会の過度な「目的指向」は、個人の内発的な動機や、それ自体を楽しむ「享受の快」を奪い、精神的な負担を増大させていると指摘される 。社会全体が常に変化への適応を強いられる「液状化する社会」の様相を呈しており、これが個人の「窮屈さ」の根源にあると考えられる。   本稿は、18世紀の啓蒙思想家イマヌエル・カントの道徳哲学を分析の基盤に据え、現代日本社会が抱える「不自由」の構造を診断することを目的とする。特に、カントが批判した「仮言命法」と、彼が真の自由の根源と見なした「意志の自律」という概念が、現代社会の課題を深く理解し、真の自由への道筋を考察するための強力な分析ツールとなることを示す。哲学的な概念を現代社会の具体的な問題(教育、依存、競争)に適用することで、その実践的な意義を明らかにすることを試みる。 第1章 カント道徳哲学の基礎:仮言命法と定言命法、そして意志の自律 1.1 仮言命法の本質とその危険性:条件付き命令が奪うもの カントの道徳哲学において、「仮言命法」は「もし〜ならば、〜せよ」という形式を持つ条件付きの命令として定義される 。これは、特定の目的を達成するための手段として行為を命じるものであり、行為それ自体が善であるわけではない。例えば、「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け」という指示や、「同僚によく思われたいから助ける」といった行為は、仮言命法に基づくものと解釈される 。   カントは、このような仮言命法に基づく行為を「他律的」であると批判する 。なぜなら、行為の動機が行為者自身の外部にある目的や欲求(見返り、承認、あるいは神の命令など)によって決定されるためである。行為者が自らの意志で行為の原理を決定する「自律」が妨げられ、個人の行動が外部の報酬や承認、あるいは罰則の回避といった「条件」...

ホメオスタシス

ただでさえ汗かきなのに、やたら水分摂取する体質なものだから、毎年熱くなっていく昨今では、電解質(?)がどんどん失われていって、結構たいへん。 もう、冬が待ち遠しい。 冷たいお茶だの冷水だのを飲みすぎて、ヤバいと思って塩気のあるお菓子とかカップラーメンなどを食べるのが習慣化。(⇐もう、太るとか言ってられない。) だけど、電解質の抜けた身体に、急に塩分を注入すると、それはそれで大変なんだが、シャワーを浴びて、汗をかいた下着を替えたり、エアコンの効いた部屋で過ごしていると、だんだん身体が落ち着いてきて、なかなかいい気分になる。 ふふ。俺の人生悪くないぞ、なんて、ちょっと大げさな気持ちにすらなる。 いまは午後10時(夜)だが、いまの時季だと、まだこの時間になれば気温もマシになる。 ・・・そう。昼夜逆転。

元ネタ:「やさしい経済学」 ー資金循環で見る日本企業の姿ー 帝京大学教授 田中賢治 を基にした、Googleの生成AIによる詳細なレポート (再掲)

日本企業の資金余剰と経済成長への課題:背景、現状、そして持続的成長に向けた提言  I. はじめに 本レポートの目的と構成  本レポートは、日本経済が長年にわたり直面している企業部門の資金余剰問題に焦点を当て、その背景、設備投資の現状、余剰資金の具体的な使途、そして持続的な経済成長を実現するための課題を多角的に分析することを目的としています。これらの分析に基づき、企業および政府が取るべき具体的な提言を提示します。  日本経済における資金余剰問題の重要性  日本の非金融法人企業は、1990年代後半以降、継続的に資金余剰状態にあります 。この状況は、主要先進国の企業部門が資金過不足を概ね±5%の範囲で変動させているのに対し、日本企業が1998年以降、極めて大きな資金余剰を継続的に計上している点で特異であると認識されています 。この潤沢な資金が国内の設備投資や研究開発といった将来に向けた生産的な投資に十分に活用されていないことは、日本経済の低成長、生産性停滞、ひいては国際競争力低下の根源的な要因の一つとして指摘されています 。したがって、この資金余剰問題の構造を深く理解し、適切な対策を講じることは、日本がデフレからの完全な脱却を果たし、持続的な経済成長を実現するために不可欠な課題であると言えます。  II. 日本企業の資金余剰の背景と歴史的推移 資金余剰の定義と継続的な状況 資金余剰とは、企業が事業活動を通じて生み出した資金(貯蓄)が、設備投資などの実物投資を上回る状態を指します。会計上は、税引き後当期純利益から配当金を引いた「フローの内部留保」に減価償却費を加えた自己資金の範囲内で設備投資が収まっている状況に相当します [User Query]。マクロ経済統計においては、日本銀行が作成する資金循環統計において、非金融法人企業部門の資金過不足として把握されます 。 日本の非金融法人企業は、1998年度以降、2006年度を除き継続的に資金余剰を計上しています [User Query]。この資金余剰への転換は、バブル経済崩壊後の1990年代中ごろを境に、企業部門が資金不足主体から資金余剰主体へと変化したことに端を発しています 。この傾向は現在まで一貫して継続しており、直近では、民間非金融法人企業の資金余剰が過去最大の14.4兆...