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石破さんを殺したのは誰か?

 石破政権終盤になればなるほど、石破内閣の支持率があがる一方、自民党への支持が下がる、という奇妙な現象が起きた、とされる。 つまり、自民党が先の参院選で大敗したのは、いわゆる「裏金議員」が悪いのであって、石破さんが悪いわけではない、という論理だ。 しかし、自民党にクリーンさを求めるあまり、「クリーンな石破さん」対「汚い自民党の裏金議員」という対立軸が成り立って、自民党そのものを崩壊の危機へと追いやり、それがかえって石破さんを窮地に追い込んだ、とも言える。 有権者がもとめていたものは、なんだったのか。 自民党にクリーンさを求めるあまり、かえって石破さんを追いやったのは、実は石破さんシンパではなかったのではないか。 自民党に過度のクリーンさを求める「不寛容」が、かえって石破さんを「殺した」とも言えるだろう。

ハイデガーともののけ姫 ー存在神秘の哲学ー (再掲)

   ハイデガーの「存在神秘の哲学」と『もののけ姫』のシシ神、そして日本における保守思想の関連性について考察します。 ハイデガーの「存在神秘の哲学」 ハイデガーの哲学は、存在そのものの根源を問い、「存在者」としての個々の事物や人間ではなく、「存在」という究極的なものを探求します。特に彼の後期思想では、存在は自らを隠しながら現れる「存在神秘」として捉えられます。存在は、人間が認識しようとしても捉えきれない、深遠で、根拠なきもの、しかし同時にあらゆる存在者を支える根源的なものとして現れます。この「存在の贈与」という概念は、存在が自ら身を引くことで、存在者へその充溢を贈与するというものです。これは、人間中心的な視点ではなく、より大きな存在の働きに目を向ける思想と言えるでしょう。 『もののけ姫』のシシ神 『もののけ姫』に登場するシシ神は、まさにハイデガーが語る「存在神秘」を象徴する存在と解釈できます。 生と死を司る存在: シシ神は、生命を与える力と同時に、それを奪う力も持っています。傷を癒し、森を再生させる一方、人間や他の獣の命を容赦なく奪い、タタリ神をも生み出します。これは、ハイデガーが言う「存在の無化」と「存在の充溢」が表裏一体であることを示唆します。生命の根源であると同時に、その無常性、破壊性も併せ持っているのです。 超越的な存在: シシ神は人間の感情や思惑を超越した存在として描かれます。人間の善悪や都合に左右されず、ただ自然の循環の一部として、生命の運行を司ります。感情や個としての意志がなく、太陽や風、川といった自然そのものと同じような存在であると解釈されています。 不可知性と畏怖: その力は人間が理解しきれないほど強大であり、人間が作り上げたものや計画が一瞬にして無に帰すほどの圧倒的な存在感を示します。この不可知性、畏怖の念は、ハイデガーが説く「存在神秘」に通じるものがあります。 シシ神は、人間が認識やコントロールしようとしてもできない、しかし確実にそこにあり、すべてを包摂する「自然」そのものの象徴であり、その根源的な力が「生命」と「死」という形で現れていると言えるでしょう。 日本の保守思想との関連 日本における保守思想は多様ですが、その根底には自然との調和、伝統の尊重、共同体意識といった要素が見られます。 自然との共生: 日本の伝統的な...

ハイデガー哲学への省察 増補

 <世界>は ときに 人間に対して、あまりに 残酷な 開かれ方をする。 社会保障がどうとか、 経済情勢がどうとか、 などは 一切お構いなく、 ただ 残酷に <世界> は 現存在としての 人間に対して 開かれうる。 しかし、そのような 開かれ方をする <世界> の中にこそ、 ハイデガーは 連帯の可能性を 模索したのではないだろうか? 人間が 共同現存在のまどろみ から 醒めること、 それは おそらく 「死」 を 意識することを通して 起こり得る。 確かに、 <世界> が そのように 残酷な開かれ方をするとき、 それは 孤独ではなく、 そのような開かれ方をする <世界> に おいてこそ、 孤独ではなく 連帯の可能性が 現れる 可能性はあり得る。 もっとも、 ハイデガー哲学においては、 それが 「ドイツ民族の使命に目覚める」 という 方向へ進んでしまったがゆえに、 ナチズムとの親和性を やり玉に 挙げられる。 しかし、 現存在たる 人間は、 おそらく どんな時代、場所においても、 そのような <世界> の 開かれ方においてこそ、 連帯の 可能性を見出してきたのではないだろうか。 もちろん、 今後どんなに 科学技術が発展しようが、 どんなに 社会構造がスマートになろうが、 そのような <世界> の 開かれ方は 現存在たる人間に 容赦なく 襲いかかるだろう。 だが、 そうであるからこそ、 人間は、 はるか先の将来においても、 あるいは たった今現在においても、 古い殻から 抜け出して、 新たな一歩を 踏み出すことが 出来るのではないだろうか。 言い換えれば、 <世界> が そのような残酷な 開かれ方を する限りにおいて、 「人間」は 孤独を克服し、 連帯の可能性を 見出すのである。 (以下、Googleの生成AIによる簡単なレポート) 「<世界>は ときに 人間に対して、あまりに 残酷な 開かれ方をする」という問いかけ、深く考えさせられますね。ご提示いただいた内容は、ハイデガー哲学の根幹にあるテーマを鋭く捉えつつ、現代社会や未来への展望にまで踏み込んだ、非常に示唆に富んだものだと感じました。 ハイデガー哲学と「死」の意識 ハイデガーは、人間を「現存在」(ダーザイン)として捉え、その本質を**「世に投げ出されていること」 としました。私たちは、自らが望んでこの世に生まれ...

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート 増補

 現代社会においては、人間は高度資本主義下にあって、寄る辺なきアトムとして生きている。 アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。 エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか? こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。 これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。 しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。 結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。 (以下、Googleの生成AIによる簡単なレポート) 現代社会における個人の存在価値という深い問いかけに、アーレントとシュミットの思想を交差させながら思索する、非常に興味深い視点です。提示された内容に沿って、アーレントの思想における「赦し」と、それが現代社会の課題にどう向き合うかについて、以下のように考察をまとめます。 アーレントの思想における「人間の価値」と「多数性」 アーレントは、現代社会を**労働する動物(animal laborans)**が支配する世界として捉えました。これは、人々が生存のための労働に終始し、経済的な合理性や消費のサイ...

政局

 石破さんが辞任して、また高市なんかが首相になったら、この国も終わりか、と厭世的な気分になってくるが、衆参両院で自公で過半数割れしてる状況では、野党にも協力を要請しなきゃいけないわけだし、今度は野党の良識が問われてくるよね。 本気で減税だの積極財政だのでいいのか、という。 仮に自民党の新総裁で誰が首相になったとしても、野党に内閣不信任案をチラつかされたら、安倍1強時代みたいな、木で鼻を括ったような答弁はできないわけだし。 ま、いずれにせよあまりにも野党をバカにしたような態度はもう取れないよ。 当たり前だけど。 今度こそ、ほんとに野党も含めて、国民の付託に応えうる政治運営が出来るか、が問われるね。 それが出来なければ、この国は破滅する。

石破首相が辞任を表明したが、すぐさま衆議院を解散しなければならないのか、Googleの生成AIに聞いてみた。

 提供されたテキストに基づくと、石破首相が辞任を表明しても、 直ちに衆議院を解散しなければならないわけではありません 。その主な理由は以下の通りです。 内閣の責任と首相の辞任 憲法第66条第3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」と定めており、責任の主体は 内閣全体 です。一方で、内閣総理大臣の辞任は、国会法第64条に基づき、内閣総理大臣が欠けた状態を作り出します。これによって、憲法第70条により 内閣全体が総辞職 することになります。 しかし、内閣総辞職は、憲法第67条で定められた新たな内閣総理大臣の指名手続きに進むためのものであり、直ちに衆議院の解散を義務付けるものではありません。テキストが指摘しているように、この手続きは憲法の規定通りに行われたものであり、衆議院の解散は別の政治的課題とみなされます。 衆議院の解散権と新首相の判断 衆議院の解散権は、形式的には天皇の国事行為ですが、実質的には 内閣 が行使すると解釈されています。内閣総理大臣は内閣の首長として、この解散権を実質的に決定する立場にあります。 提供されたテキストによると、「新内閣総理大臣は、解散権を現在行使しないと発言されている」とあり、首相が交代したからといって、必ず衆議院の解散を行わなければならないという法的義務はありません。解散権の行使は、憲法解釈上、 首相の専権事項 と解釈されることが多く、新首相がその行使の是非を判断するものです。 また、解散に反対する国務大臣がいる場合でも、憲法第68条第2項により、内閣総理大臣がその国務大臣を罷免できるため、内閣としての決定を 内閣総理大臣が主導 できる体制となっています。これは、憲法第66条第3項の「内閣の連帯責任」が、内閣一体の原則に基づくものであり、多数の憲法解釈が「首相の解散権行使が憲法違反とは言えない」と支持していることからも明らかです。 したがって、石破首相が辞任したからといって、新しく選出された首相が直ちに衆議院を解散しなければならないという法的根拠は、提供されたテキストからは見出せません。

日笠完治先生よりご回答 (再掲)

 ○国会に対して連帯して責任を負ってるのは、内閣であって、総理大臣ではない。 ⇒憲法66条3項「内閣は、行政権の行使について、国会に対して責任を負う。」から、正当な主張です。国会との関係における原則です。  ○したがって、安倍首相の辞任に伴って、内閣が総辞職して、国会であらためて首相を選ぶ選挙が行われた。 ⇒国会法64条で内閣総理大臣は、辞表を提出することができます。辞表を提出すれば、内閣総理大臣が欠けたことになります。 ⇒憲法70条で「内閣総理大臣が欠けたときは、……内閣は総辞職しなければならない。」に該当する。  ⇒そこで、次期内閣総理大臣は、憲法67条で、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」  >>>>今回も、憲法の規定通りに行われています。衆議院の解散については、政治課題となっても、別の問題です。  ○もし解散権が首相の専権事項だというなら、当然国会に対して連帯責任を負っているのは首相であって、首相が辞めた以上、衆議院を解散しなければならない。  ⇒憲法69条の「衆議院が解散されない限り」の規定、と、憲法7条第3号「天皇は、内閣が助言と承認により、……これを行う。」の規定から、衆議院の解散権の主体は、形式的には「天皇」であり、その国事行為の関して授業でお話ししたとおり議論はありますが、実質的には内閣と解釈されています。 内閣総理大臣は内閣の首長ですから、実質的には内閣総理大臣が解散を決定します。  ⇒新内閣総理大臣は、解散権を現在行使しないと発言されています。首相が交代したが、衆議院の解散は必ず行わなければならないとは言えません。 もちろん、授業で説明したように、解散権行使は、自由ではないという考え方もあります。憲法解釈的には傾聴すべき見解ですが、そのように解釈すべきとの制度的な保障システムはありません。  ○そうでない、つまり国会に対して連帯して責任を負っているのは内閣だというなら、政界の常識となっている解散権は首相の専権事項という考え方は、憲法違反ということになる。  ⇒内閣の中に、解散に反対する人がいれば、内閣総理大臣は、憲法68条2項によって、罷免することができます。そして、賛成の残った国務大臣が内閣として内閣...